Aemilius Regillus 家 |
Aemilius Regillus 家の系図 |
アエミリウス・レーギルルス家 Regillusという名は羅和辞典によると「1.サビニ人の町。 2.ラティウムにあった小湖、その付近でローマ人がラティウム族を破った(前496年)ことで有名。」とあるが、このアエミリウス・レーギルルス家とどの様なつながりがあるか、あるいはないか、不詳である。 Marcus Aemilius Regillus マールクス・アエミリウス・レーギルルス 貴族 ?-205 息子(恐らく):Lucius Aemilius Regillus(190法務官等) Marcus Aemilius (Regillus) 217以前 法務官?(首都法務官) ?-205 フラーメン・マールティアーリス 前217年以前に法務官か? もし法務官であったならば彼は首都法務官で、ローマにおける宗教と他の式典を担当した(リーウィウス、22.9.11, 33.8 ; 27.38.8)。 レーギルルスは前214年にティトゥス・オタキリウスと共に、最初に投票するケントゥリアによって執政官と宣言された。民会の議長を務めたクィーントゥス・ファビウス・マークシムスが、「ハンニバルに対抗するためにはより経験を積んだ将軍の必要性がある」と指摘し、付け加えて、「このレーギルルスはフラーメン・クィリーナーリス(ローマ初期の軍神クィリーヌス神の祭司)であり、したがって、この都市を離れるべきではない」と力説していなければ、彼らは疑問の余地無く執政官に選ばれていただろう。レーギルルスとオタキリウスはそれゆえ、期待していたことの当てがはずれ、彼らの代わりにファビウス・マークシムス自身が、マールクス・クラウディウス・マルケルルスと共に選ばれた。 レーギルルスは前205年、フラーメン・マールティアーリス(軍神マールスの神官)であった時に死去した(リーウィウス、24.7,8,9, 29.11)。 Lucius Aemilius Regillus ルーキウス・アエミリウス・レーギルルス 貴族 父(恐らく):Marcus Aemilius Regillus(?-205 フラーメン・マールティアーリス) 兄弟:Marcus Aemilius (Regillus) 190 法務官(艦隊指揮官) 189 政務官代行(艦隊指揮官) 恐らく前項の息子で、アンティオコス大王に対する戦争中、前190年に法務官であった。彼は艦隊指揮を命ぜられ、エーゲ海における戦役で活発に行動し、ロードス島海軍に助けられてミオンネーソス岬沖海戦においてアンティオコス大王の艦隊を壊滅させることに成功した(前190年9月)。 レーギルルスはその余勢を駆ってフォカイア市を攻撃した。その時レーギルルスが前もって同市のリーダーたちに呼びかけて降伏をすすめたにもかかわらず、彼らの心は動かず、ローマ軍に頑強な抵抗をつづけた。これが何回かの海戦によってアンティオコス側が敗北を重ねた後であったことを考えれば、当時フォカイアの政権を握っていた民衆派勢力の堅固さに驚かされる。しかし彼らは、アンティオコス大王からの救援の望みを絶たれて、やがて降伏した(リーウィウス、37.2.10, 4.5, 14-15, 17-19, 21.6-22, 26-32, 47.3-4 ;『支配の天才ローマ人』P148)。 この年レーギルルスは、ラレス・ペルマリニ(海、海路の守護神)への神殿の奉献を誓約した(マクロビウス、『サトゥルナリア』1.10.10)。その奉献は、前179年にマールクス・アエミリウス・レピドゥス(187執政官等)がおこなった。 前189年、法務官代行として海軍凱旋式を挙行した(リーウィウス、37.58.3-4 ; 40.52.4-6)。 Marcus Aemilius (Regillus) マールクス・アエミリウス(・レーギルルス) 貴族 ?-190 父(恐らく):Marcus Aemilius Regillus(?-205 フラーメン・マールティアーリス) 兄弟:Lucius Aemilius Regillus(190法務官等) 前項の兄弟で、アンティオコス大王に対する戦争に同行した。彼はサモス島で前190年のうちに死去した(リーウィウス、37.22)。 その後すぐにこの家系は絶えたように思われる。我々はキケローの手紙(『アッティクス宛書簡集』12.24.2)から知るのだが、レピドゥス(恐らくマールクス・アエミリウス・レピドゥス(78執政官等))はレーギルルスという名の息子を持っていたが、キケローがそれを書いた時には死んでいたという。恐らくレピドゥスは、アエミリウス氏族の中に、レーギルルスという家名を復活させようとしたのだろう。彼がその長男にパウルルスという名を与えたように。 |
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